昭和51年11月02日 松村家霊祭
親が子供のことを・・・・?当然のこととして・・?信心をさせて頂く者として当然のことで?信心をさせて頂く、信心が分れば分るほど、もうこれは・・・・・・・?お道の信心が分れば分るほど、結局私どもが助かって行っておる状態と同じに、親の魂も助かっていく、というのが今日の御理解でしたね。今日のお祭りには大変力がいった。ご心願に頂くのにね、仏教であのくり出しお位牌というのがありましょう。お位牌さんを、中にいっぱい詰めてある。
・・・一つにまとめてある。であのくり出し位牌、それであの毎年、年忌年忌のとを前に出してきながら、いうなら過去帳とおんなし、と言う様なものが、あれは確かあの浄土宗で私は元浄土宗、くり出し位牌というものがありました。それを開けると中に沢山な先祖代々のお位牌が入って、中に。
そのくり出しお位牌を頂いて、それがもう、まあ例えて言うとなんていうでしょうかね、あの天岩戸、岩戸開きというのがありましょう。古式の、あの岩戸開きをするように厳めしくて、重たくてとても力がなかりゃなければ開けられんという感じでね、そのくり出し位牌ですか、片一方の方は、こう開扉をするでしょう、
こように片一方だけがそれこそ大変な力で開けられた、ということを頂いた。最近言われるように、魂の世界というのはもう暗黒の世界です。ね、だから私ども、魂を清める、魂を磨いて、いわゆる信心の光を頂いて行かなければあの世には行けるところじゃないという、ね、そのいうならば、暗黒の世界から私共が精進をしている間に本気で、身を清め光を頂いてあの世に行く所を光明世界という。
今日はね、そのいうならば暗黒の世界の扉が片一方がこう開いた。光明の世界が中に、今光が差し込んだという感じのお祭り。しかもこれは、私し・・・力のあるものでなからなければこれは開くことは出来なかったというような感じの御祭でした。そこで後の半分をまいっちょ開かにゃいかん。それを神様にお願いさせてもらいよったらね、竹トンボ、ね、あんたどん知っとるでしょう。竹をこのくらいに切って、こう両方を削って、で足を付けてこうひねって、竹トンボちゅう。
今の子供達は知らんかん知れんね。その竹トンボを頂いて削り方が、まだ薄く削ってないね。それから、普通はただもうほんとに削ったらね、力を入れてこうひねりさせすれば、一筋にこう上がるようになっている、けれども上がらんけん手でこうやって上さんあげにゃん。こう上がったけれども足が重すぎてね、こうこうやってから、その落ちてくるところを頂いた。
これはどういう言ことかというと、あとの半分は、という力を受けること。遺族のものが。そのまま私にも、また孫や子が。いうならこれが簡単にできようとは思われませんけれども、遺族のもののこれからの信心ということだと思います。竹ということは、素直ですね。松村さんは大変素直です、外の所ではわかりませんが素直だと思う、あのことでは信心では大変素直なところがある。
竹は素直、だから素直というても、生まれて素直と言うだけではいかん。それを削らんやいかん。削るということは、なら自分の心を身を削り心を削りしてと言うでしょう。なら今日のお供えは沢山なお金をかけて、これは身を削ったこと。そしてその思いというのは、私の方のこの下に弟に数え年の三つで亡くなった子がおるんです。私の弟になる。それが亡くなる時に、非常にあのラムネを頂いた。・・?
ラムネを頂いてそして、それを全部両親から婆達から、私達にまで、一口づつ飲め、飲め、飲めというてね、押しやるようにして飲め、肉腫で亡くなったんですよ。亡くなるあ肉腫癌で亡くなった。それがあの、そしてそれをみんなが飲み終わってから、また稔がそれを飲んで、と息の切れるのと一緒でした。私まだ小さかったけれども、その病気を今でも覚えておりますが。
だから、あの稔の霊祭の時には、もうどんなことがあってもラムネはね、どっからか探してきてお供えする。それが私は思いなんです。ね、真心。親があんなものばせんにゃ、親があんなもん喜べるかというて、その事でそれを心を砕くことが真心。今日はその時のことも私は頂くんです。だからこうして真心をこめて、することは心を削ること。ね、なら沢山の金を掛けたことは身を削ったこと。
この身を削り心を削るが、両方ねトンボというのは、こっちを削って、こっちをこう削るようになっている、あんたどんしっとんの、あれ、あなた方は御承知ですよね、竹トンボ、だから竹ということは素直、素直だからというて、生まれつき素直だからというて幸せになるちゅうことではない。素直心がいよいよ清められたり削られたりするから、ね。そして今度はこの足です。
ちっと重すぎるけんで、軽うせにゃいかんということは、しげしげと合楽通いをし、足が軽うね、もうほんとに合楽参りちゅうたら足が軽うなるぐらいな、あぁまた参らんならんちゅうのじゃなくてね、まだ足が重すぎるという感じ。これをね、こうひねるということは拝むということ。手を合わせる。こうすることはいらん。ただここに力を入れて、一生懸命祈念、祈る拝むお参りをする、そう言う様なものが力です。
そすとこれがひとりでに上がる、程しの一つそういう信心を、まひとつ是から本気でしなければならない、それが身を削る事のなりますね。それから足を軽くする、それからなら大祓い信行を、拝む力をね。そこでこうやってひねっただけでき、気持ちよくずうっと上がるわけですね。そういうおかげを頂くそれが力、力いうならば、今日は半分を私の力でいうなら開けた様なもの。ここにおる皆がもっとなら御霊を自由自在に今度は、一挙に金光大神の力ね、出て来られるごたある力を頂くためにはあんた方の信心。半分の力で・・・・・・・・・・・・?
親が子を思う、子が親を思う。これは信心がなかったちゃ同じこと。だれでんだから、いかにご仏事をにぎにぎしゅうしたとかね、さ子供にこれだけの力を入れたとか言うても、それは親として子供としては誰でも思います。これは信心がなかっても、そりゃでけること。これどもこりゃ、信心頂く者として、信心が分れば分るほど、当然の事として、このお祭りがでけたと言う事が、今日のお祭りで一番有難い、いわゆる神様が喜ばれた、今日はこんな有難いことを頂きました。